日本の伝統・文化・歴史に関すること、また今日の日本の課題についてなど、随筆を紹介するページです。最新の記事は別のブログにて掲載しています。投稿は、メールでお寄せください。(info@nsfs.jp) お名前は、ハンドルネームでも結構です。字数は、3千字以内でお願いします。内容によっては、掲載できない場合がありますので、ご了承ください。 # by nsfs-z | 2006-12-04 12:44
投稿者: 雄吉
平成18年12月4日掲載 日本において岡倉天心と言えば、東京美術学校や日本美術院を創設し、横山大観や菱田春草らと日本美術の復興運動を行った人として有名です。なぜ天心は日本美術を守ろうとしたのでしょうか。彼の決意を促したエピソードがあります。 女流画家跡見玉枝の語ったところによれば、日本美術に造詣が深かったモースが資料集めの際、通訳をしていた天心は、ある夜次のような話を聞かされます。宿屋の一室で畳に座って、ピゲローとモース、フェノロサは、その日の収穫の宝物を見せ合っていました。モースは急に黙り込み、二人の外国人はどうしたのかと聞いたのです。そのときモースは次のように答えたそうです。 「われわれの買っているような日本のいい美術品が市場に沢山出ている。まるで隠れた傷口から日本の生き血が流れ出ているようなものだ。日本人は彼らの美しい宝が国外に出てしまう悲しさが分からないのだ」と。 モースの言葉は、背後に座っていた若い天心の心に矢のように突き刺さったのです。 その瞬間、岡倉は自分の使命を感じたといいます。それ以後、天心は政府や民間の主だった人々に説き、国宝級の芸術品を国外に流出させることを禁止する国宝保存法を作らせることになるのです。 明治二十二(一八八九)年二月、上野に東京美術学校(現在の東京藝術大学美術部)が開校しました。同じ年の五月、天心は帝国博物館の美術部長になりました。天心は、絵画や仏像の忠実な写しを造る模写・模造の事業を始めました。日本画においては、技術を学ぶのに模写というのは非常に大切なことと考えられていました。美術学校の教師や生徒に模写をやらせ、彼らに研究の機会を与え、しかも出来上がったものを博物館が買い上げ、彼らの経済的援助にもなる、と考えたのです。一石二鳥です。 天心が画家たちに望んだのは、何よりも画面に精神の働きが感じられる作品を作ることでした。画家がしっかりとした精神を持って筆をとれば、作品は必ず高く、あるいは深く、あるいはすがすがしく、あるいは力強いものになる。天心はそう信じていました。 そしてまた、その精神は純粋に日本人の精神、東洋人の精神でなくてはなりません。東洋の精神は深さの点でも広さの点でも決して西洋の精神に劣るものではない、と考えたのです。 芸術における精神、心の重要性は天心の信条でした。 東京美術学校の教授となった橋本雅邦は、天心に請われて次のような言葉を残しています。「世の中の人は絵の流派の違いを大変重く見ているが、流派などは別にどうでもいいのだ。絵の本当の姿は、描かれた形などにあるのではなく、それを描く画家の心にある。心があってはじめて形が生きてくる。ただ形だけを追って、むやみに筆を動かすのは、本末をわきまえない者のやり方で、そんなことで絵の本当の働きが発揮されるはずがない」。雅邦は、教え子たちを決して自分の型にはめ込もうとはせず、各人の個性を伸ばす指導を行いました。雅邦のもとで横山大観、下村観山、菱田春草らが大きく成長していきます。雅邦の考えは、天心の教え方についての考えと合致するものだったのです。 天心は自から教授として教壇に立ち、日本美術の歴史の講義をしました。後にこれをまとめたのが『日本美術史』です。この中で、天心は次のように言っています。「西洋画を参考にすることも一向に構わない。肝心なことは、自分があくまでも主となり、参考はあくまでも参考として進むことです」 投稿者: 武宏
平成18年12月4日掲載 日本人の祖先が稲作文化とともに揚子江中下流域から来たという説があります。稲作と漁労を生業とするこの地域の人々は、華北人から「百越」(越人)と総称されていました。彼らは、弥生時代の日本人同様、履物を脱いで高床式住居に住むなどの文化風俗を共有する民族で、「倭族」ともいわれています。 「百越」の出典は『呂氏春秋』『漢書』などの歴史書で、百はたくさんの意味です。越は、上古音で「ヲ(wo)」と発音し、倭の類音異字です。 現在の日本語でも、氏姓の越智氏や、地名の越辺川〈埼玉県〉などのように越をオと読む例が残っています。古代の日本には越国が存在しましたが、その後、越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)などの地域に分かれました。 「百越」の諸族は、BC五〇〇〇年ころ長江下流域に住んでいましたが、漢族の発展とともに故郷を追われ、中国華南から南西部や東南アジアに移動し、治乱興亡を繰り返しました。この過程の中で日本列島に移動した人たちが稲作を伝えたともいわれています。 中国華南の広西チワン族自治区には、漢民族の他、チワン族、ヤオ族、トン族などの少数民族が住んでいます。 トン族は、現在中国全土に約三百万人居ます。「百越」の一派で、秦・漢の時代に「駱越」と呼ばれ、魏・晋以降は「僚」と称しました。新中国成立後、トン族と呼ばれることになったのです。トン族は、自然神を崇拝し、女神信仰を重んじており、わが国ときわめて近い神観念を有しています。このため、日本の神社形態の成り立ちや祭神の形成過程を研究するため、日本の各大学から調査隊が派遣されています。 このトン族の祖先の女神を薩神(薩歳)といいます。薩はトン族語で祖母の意味です。天下に大洪水が起こり万物が滅んだとき、薩神が送った瓜に乗って助かった男女が夫婦となって、稲をはじめ山川動植物を生み、人類の祖先になったといわれています。 この話は、わが国のイザナギ・イザナミによる国生みの神話と共通しています。また、トン族は、太陽を万物の神として崇拝の対象にしています。この太陽信仰と薩神信仰は深い関わりがあります。トン族の人々は、両者を同一とみなし、太陽の光線は薩神の威力を表すものと考えています。 このように薩神とアマテラスとの間には、①民族の祖先の女神である、②太陽神でもある、③稲作の神である、等の一致点があります。 もちろん、トン族神話が日本神話の直接の原型であると断定はできませんが、稲作の源流地から稲作が日本へ伝わったときに、その地の祭祀や神話も共に伝えられた可能性が考えられます。 トン族を代表する建築物に鼓楼があります。一つの村で多いところでは十数座、少なくとも複数座が存在します。日本の氏神様のように、氏族ごとにそれぞれ一座を建立することが多いといいます。高さは、それぞれ異なりますが、八、九メートルから十四、五メートルもあります。鼓楼は政治、軍事などの議事の場であるとともに、祖先を祭り、娯楽の場所でもあります。 トン族は大樹を信仰の対象としていましたが、そこから鼓楼が成立したといわれています。鼓楼を支える基本信仰は、樹木、山、太陽の三つです。樹木の信仰はその原型が大杉であったという事実からも、柱が建築物の基本の骨組みになっていることからも明らかです。山は鼓楼の形状から容易に導かれます。 太陽については、正面に決まって円形の鏡がかかげられ、頂点が太陽を象徴する傘の形をしていることから推測されます。 このことは、太陽神であるアマテラスを祀る伊勢神宮の御神体が、三種の神器の一つ八咫鏡であり、隠されたもう一つの御神体が「心の御柱」であることを彷彿させるものがあります。(続)
投稿者: 良
平成18年12月4日掲載 はじめに、式年遷宮の歴史から振り返ってみたいと思います。 伊勢神宮の古伝では、第四十代天武天皇がこの制度を定められ、次の持統天皇の御代(西暦六九〇年)に第一回の遷宮が内宮で行われたのです。そして、この律令制度のもとに始まった「式年遷宮」は、奈良時代から平安時代初期までの四百年間は、いわば、国の予算で神宮の造営に着手していた時期で、ほぼ順調に行われていました。鎌倉時代に入ると、それまで遷宮を支えてきた体制が崩れ、代わって大神宮役夫工米(造営工事に従事する人の食料米)を全国の荘園などに割り当て、これを造営費に当てるようになったのです。 当時の記録には、何とかその負担から逃れようとする荘園領主と、それを強めようとする朝廷との攻防が記載されています。さらに、戦国時代に入ると、ついに百二十年以上に及ぶ遷宮中断という史上最大の危機に見舞われました。 この長期にわたる中断に心を痛め、「何とかしなくてはいけない」と伊勢の慶光院三代清順尼は、第四十回目の外宮造営を達成させるべく、全国にその造営資金の寄付を募りました。 次の第四十一回目は、織田信長と彼の遺志を継いだ豊臣秀吉による造営資金の献納によって行われました。その後、江戸時代に入ってからの「式年遷宮」は、すべて幕府の出費で行われました。 明治維新後は、神道が国家宗教として保護されたので、遷宮は国家事業となりました。ところが、第二次世界大戦によって、事態は大きく変化しました。日本の敗戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指令で、「国家と神道は分離すべきである」とされたため、伊勢神宮に対しての国の保護・支出は一切なくなりました。戦後、伊勢神宮が宗教法人となり独自で遷宮を行ったのは、前々回の第六十回遷宮(昭和四十八年)が初めてでした。このとき、伊勢神宮自身と全国に広がった奉賛会によって造営が支えられるという新しい体制が生まれました。 ちなみに、前回、二十世紀の最後を飾った第六十一回式年遷宮(平成五年)の総予算は、三百二十七億円で、前々回の七十億円と比較すると約五倍でした。これは御用材としての檜の値上がり幅と一致したそうです。そして、第六十一回式年遷宮は全国から寄せられた募金財源によって目標額が達成され、無事に行われました。このことは、式年遷宮が多くの国民から理解が得られた証拠ではないでしょうか。 ところで、神殿を新しく建て替えて神様を移すというこの遷宮は、どこの神社でも行われるのですが、何年ごとと定めている神社は、それほど多くはないようです。 そもそも、式年とは〝定まった年〟あるいは〝動かしてはいけない〟〝規定された〟という意味で、伊勢神宮では二十年を式年としています。このことは、災害などで神殿が破損した場合などに急遽行われる「臨時遷宮」と区別しています。 それでは、どうして二十年ごとと定めたのでしょうか。まず第一に考えられるのは、建物の腐朽と老朽化ですが、果たしてそうでしょうか。 当時、既に同じ木造建築でも法隆寺・薬師寺など、千年以上の歳月を経て今なお健在な耐久建築を造る技術はありましたが、それをあえて、耐久性の低い萱葺・掘立柱の唯一神明造を選んだのです。この唯一神明造は、弥生時代にまで遡る高床式穀倉の姿を今に伝えています。檜の香りも高いこの建物は、完成するまでに約十年の歳月を要するとのことです。さらにその間、御料木(御用材)を伐り始めるに際しての「山口祭」(平成十七年五月)をはじめ、「木本祭」、「御杣始祭」、「御樋代木奉曳式」、「御船代祭」など、造営の安全を祈る祭り行事が数多く行われています。 式年遷宮では、新調される装束だけでも五百二十五種類で千八十五点にも上ります。さらに、神宝と呼ばれている調度の品々は、百八十九種類で四百九十一点を数えます。これは、伝統工芸の優れた技術を守り伝えていくという重要な意味もあるのですが、先の造営とともに式年遷宮には欠くことのできない大事業なのです。 そこで、伊勢神宮で毎年行われている神嘗祭に思いを馳せてみました。 この祭は、年に一度、神様の身の回りの品々(装束から祭器具)を新調し、その年の新米を神様に召し上がっていただく祭りで、数ある祭りの中でも最も尊重されるものといわれています。その祭りを通して、神様は大いなる力を新たに蘇らせ、その力を発揮されると考えられています。この神嘗祭を、二十年周期でしかも壮大なスケールで行うのが式年遷宮ともいえるのではないでしょうか。ですから、伊勢神宮では、式年遷宮のことを「大神嘗祭」と呼んでいます。 もちろん、それだけの意味ではないと思います。「新しい神殿を造り、新しい神宝を製作する伝統の技術を次の世代に伝えるには、二十年がぎりぎりの年限なのです」と、多くの匠(手先の仕事により、物を作る職人)たちが語っているからです。一方、ある神職は、「信仰を伝えていく上で、二十年という節目の必要性を痛切に感じます」と、このように述べています。 私たちを取り巻く環境や、世界観、価値観がめまぐるしく変化する現代社会にあって、明日の日本を担う次の世代に、目には見えない〝精神・魂・心〟を伝えていくことは、至難の業ともいえましょう。このような中にあって、日本人の心と技を厳格に守り、それを繰り返すことにより未来永遠に伝えていこうとする一大祭典、それこそが「式年遷宮」といえるのではないでしょうか。 二十一世紀を生きる私たちに「式年遷宮」は、激励のメッセージを届けてくれているように思えてなりません。
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