投稿者: 雄吉
平成18年12月4日掲載 日本において岡倉天心と言えば、東京美術学校や日本美術院を創設し、横山大観や菱田春草らと日本美術の復興運動を行った人として有名です。なぜ天心は日本美術を守ろうとしたのでしょうか。彼の決意を促したエピソードがあります。 女流画家跡見玉枝の語ったところによれば、日本美術に造詣が深かったモースが資料集めの際、通訳をしていた天心は、ある夜次のような話を聞かされます。宿屋の一室で畳に座って、ピゲローとモース、フェノロサは、その日の収穫の宝物を見せ合っていました。モースは急に黙り込み、二人の外国人はどうしたのかと聞いたのです。そのときモースは次のように答えたそうです。 「われわれの買っているような日本のいい美術品が市場に沢山出ている。まるで隠れた傷口から日本の生き血が流れ出ているようなものだ。日本人は彼らの美しい宝が国外に出てしまう悲しさが分からないのだ」と。 モースの言葉は、背後に座っていた若い天心の心に矢のように突き刺さったのです。 その瞬間、岡倉は自分の使命を感じたといいます。それ以後、天心は政府や民間の主だった人々に説き、国宝級の芸術品を国外に流出させることを禁止する国宝保存法を作らせることになるのです。 明治二十二(一八八九)年二月、上野に東京美術学校(現在の東京藝術大学美術部)が開校しました。同じ年の五月、天心は帝国博物館の美術部長になりました。天心は、絵画や仏像の忠実な写しを造る模写・模造の事業を始めました。日本画においては、技術を学ぶのに模写というのは非常に大切なことと考えられていました。美術学校の教師や生徒に模写をやらせ、彼らに研究の機会を与え、しかも出来上がったものを博物館が買い上げ、彼らの経済的援助にもなる、と考えたのです。一石二鳥です。 天心が画家たちに望んだのは、何よりも画面に精神の働きが感じられる作品を作ることでした。画家がしっかりとした精神を持って筆をとれば、作品は必ず高く、あるいは深く、あるいはすがすがしく、あるいは力強いものになる。天心はそう信じていました。 そしてまた、その精神は純粋に日本人の精神、東洋人の精神でなくてはなりません。東洋の精神は深さの点でも広さの点でも決して西洋の精神に劣るものではない、と考えたのです。 芸術における精神、心の重要性は天心の信条でした。 東京美術学校の教授となった橋本雅邦は、天心に請われて次のような言葉を残しています。「世の中の人は絵の流派の違いを大変重く見ているが、流派などは別にどうでもいいのだ。絵の本当の姿は、描かれた形などにあるのではなく、それを描く画家の心にある。心があってはじめて形が生きてくる。ただ形だけを追って、むやみに筆を動かすのは、本末をわきまえない者のやり方で、そんなことで絵の本当の働きが発揮されるはずがない」。雅邦は、教え子たちを決して自分の型にはめ込もうとはせず、各人の個性を伸ばす指導を行いました。雅邦のもとで横山大観、下村観山、菱田春草らが大きく成長していきます。雅邦の考えは、天心の教え方についての考えと合致するものだったのです。 天心は自から教授として教壇に立ち、日本美術の歴史の講義をしました。後にこれをまとめたのが『日本美術史』です。この中で、天心は次のように言っています。「西洋画を参考にすることも一向に構わない。肝心なことは、自分があくまでも主となり、参考はあくまでも参考として進むことです」
by nsfs-z
| 2006-12-04 12:00
| 文化
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